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グッドデザイン賞で見つける 今、デザインが向き合うべき 課題とは

審査プロセスをとおして 社会におけるこれからのデザインを描く、 グッドデザイン賞の取り組み「フォーカス・イシュー」

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この記事のフォーカス・イシュー

まなざしを生むデザイン

磯野真穂×原田祐馬|必要なのは「もっと面倒くさくしてくれるデザイン」

2022.03.14


2021年10月に受賞作品が発表された、2021年度グッドデザイン賞。しかし、まだプログラムは終わっていない。受賞作選定とは別の切り口からデザインの潮流を見出すため、議論を深めるための特別チーム(フォーカス・イシュー・ディレクター)を編成して課題や今後の可能性を「提言」として発表する「フォーカス・イシュー」は依然として進行中だ。

そんなフォーカス・イシュー・ディレクターのひとり、UMA/design farmの原田祐馬は悩んでいた。

彼が、2021年度フォーカス・イシューのテーマとして設定したのが「まなざしを生むデザイン」。今の社会から見えにくい人や物に対して、デザインは「まなざし」を向けられているだろうか?──原田自身のそんな問題意識から設定されたものだ。

ただ、グッドデザイン賞の審査プロセスは終了したものの、まだ提言の着地点が見えてこない。そこで、問いに対する思索を深めるため、原田は識者との対話に乗り出すことにした。問いを共有する相手として声をかけたのは、人類学者の磯野真穂。入念なリサーチやフィールドワークを重ねながら、摂食障害を中心に、文化人類学的な立場から医療や人間の身体を研究してきた磯野。氏は、原田の持つ問いに対してどのように応答するのだろうか?

デザインのネタではなく、「タネ」を育てる

原田 今日は対談を引き受けていただき、ありがとうございます。今回設定したフォーカス・イシューのテーマに関する思索を深める対談は、他のディレクターも各々行っているのですが、受賞者にお話をうかがうケースが多いんです。

ただ僕は、以前から福井市が主宰する事業創造プログラム「XSCHOOL」などでご一緒させていただいていた磯野さんとお話をしたいと思いました。磯野さんなら、きっとデザインとは別の視点から「まなざしを生むデザイン」というテーマについてヒントを与えてくれるのではないかと思って。

磯野 デザインのことなんて全然知らないけど大丈夫ですか?(笑)

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人類学者 磯野真穂

原田 大丈夫です!

僕がフォーカス・イシュー・ディレクターを務めるのは2年目なんですが、前回、僕が出したテーマは「とおい居場所をつくるデザイン」でした。今の社会では、見えないことを想像する力が衰えているんじゃないかと感じていたんです。今年も引き続き受けた理由は、前回のテーマを引き継ぎながらも、もう一歩踏み込みたかったからなんです。

たとえば、児童養護施設や母子支援施設などは、必ずしも多くの人々が利用するわけではないため、社会の中では見えづらい存在ですよね。そのような存在を「見えないから」といって無視するのではなく、「なぜそういう状況が生まれるのか?」「どうしたら、この状況を変えることができるのか?」と見つめているデザイナーはまだ、とても少ないと思うんです。デザイナーの目に入っていない領域は、社会の中に数多くある。1年目は、そんな実感を抱きましたね。

そこで、今年のテーマは「まなざしを生むデザイン」としました。隣近所の人たちに限らず、たとえば、「電車で隣に座った人が、なんでその本を読みたくなったのかなぁ?」と気にかけること。取るに足らないことだと思われるかもしれませんが、いろいろなことに目を背けて死んだふりしないように心がけると、見えない部分にまで想像力を持てるんじゃないか。そうすることで、社会の見方が少し変わるのではないかと思うんです。

ただ、自分の中で、まだ何かがモヤモヤしています……。そこで、磯野さんに相談したいな、と。

磯野 このテーマを聞いた時に、いったい「誰にとってのまなざしなのか?」と疑問に思ったんです。それは「デザイナーにとってのまなざし」?

原田 はい。ただ、デザイナーという時に、そこには「デザインをする人」という意味だけではなく「ハブになれる人やなにかをつくる人」という意味も含めて考えています。

磯野 最近、デザイナーと話していると、混乱状態に陥ります(笑)。デザイナーって「見た目」をきれいに整える人というイメージだったんです。でも、原田さんにとってデザイナーとは、哲学的な問いを持ちながら、プロダクトやサービスとその周囲を取り巻いている環境との関わりを変える人なんですよね。

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フォーカス・イシュー・ディレクター 原田祐馬

原田 まさに!そういう周りの空気の流れを変えていくため、僕の場合は「タネ」から一緒に関わっている仕事がほとんど。たとえば、奈良市にある福祉施設であり、アートセンターでもある「たんぽぽの家」とは、10年以上の長い時間をかけて、さまざまな問いを共有しながらアウトプットをつくっています。一方、ほとんどのデザインの仕事って、まず「ネタ」があって、それをきれいに見せることが求められる場合が多いんです。

たとえば、お菓子のパッケージという「ネタ」があれば、デザイナーがデザインを施せば美味しそうに見せることができます。けど、その商品が届いた先でデザインが「悪さ」をしてないか?地球へ負荷をかけてないか?思わぬ人を傷つけていないか?サービスやプロダクトと社会とを結ぶデザイナーが、プロダクトの背景やアウトプットによって起こる影響までを見つめれば、もっと根っこから色々と変わってくると思うんです。

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「たんぽぽの家」のプロジェクト(Photo: Michio Hayase)

まなざしを生むためのジャンプ

磯野 「まなざし」って、何かを浮き彫りにさせる力を持つ反面、何かを後景に退けたりもしますよね。わたしが、『なぜふつうに食べられないのか 拒食と過食の文化人類学』(春秋社)を書く時に意識したのは、摂食障害の当事者にとって、食べ物がどのように見えているのか?という「まなざし」でした。

ある時、インフォーマント(調査を受ける人)のひとりが「食べ物を美味しいと思ったことがない」と話してくれました。本著を書くにあたって、摂食障害の論文を通時的に、分野横断的に幅広く目を通したのですが、過食や拒食に陥った人の1日の摂取カロリーや、栄養素別の摂取量を調査した論文はあっても、そうした「体験」に焦点を当てたものは皆無に近かった。前提として、「ふつうに食べられないのは正常ではない」という発想があったために、論文の視座が治療をするための原因に目がいってしまい、当事者の体験に焦点を当てる論文が生まれにくかったのだと思います。

原田 磯野さんは「摂食障害が病気である」「摂食障害が異常である」というまなざしを後景に退かせることで、摂食障害当事者の体験という「まなざし」を浮き立たせた、と。

磯野 そう。論文や本を執筆するにあたって、どれだけ文献を読んだりリサーチを重ねたりしても、最終的に「まなざし」を生み出すためには何かを切り捨て、何かを浮き立たせるという「ジャンプ」が必要になりますよね。

わたしの場合は、インフォーマントの「食べ物を美味しいと思ったことがない」という言葉が、ジャンプをする契機になりました。その言葉に後押しされて、摂食障害に対する新しいまなざしが生まれたんです。

原田 「たんぽぽの家」とのプロジェクトが象徴的ですが、僕は、アウトプットを生み出すために、入念なプロセスを経ていきます。でも、このプロセスが、直接的にアウトプットに反映されないことも多々ある。ただ、プロセスを踏まえることは、「ジャンプ」をするための背中を押してくれると感じています。最終的にプロセスをみんなで裏切るために、プロセスがあるんです。

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危険だけどおもしろい「境界領域」

原田 以前、公共住宅の色彩計画を担当したんです。この団地は賃貸で、多くの人が何十年と暮らす場所。そこで僕が手がけたのが、廊下や外壁といった共用部のデザインでした。

共用部の使われ方を観察してみると、廊下に傘をかけたり、通行の邪魔にならない程度に鉢植えを置いたりと、プライベートなものがセミパブリックな場所に染み出していた。すごくおもしろい状況ですよね?ただ、戸建てではないので、そのように共用部にプライベートが滲み出しているのは許されない、ということでした。

磯野 原田さんの集合住宅の例のように、境界線上にある曖昧な時空間は、人類学では異物同士が混ざり合う「境界領域」と言われます。そこは、人と人がぶつかりあう危険に溢れた場所であると同時に、人と人とが繋がるおもしろい場所でもある。

コロナになってから、そのような境界領域はどんどんと失われているように感じます。感染を防止するために多くの禁止事項が設定され、人と人との「間」がなくなっている。人と人との間に境界を引くのではなく、間を考えるようなデザインって考えられるのでしょうか?

原田 今年、グッドデザイン金賞を受賞した『ココヘリ』というサービスにはヒントがあるかも知れませんね。このサービスは、発信機型会員証と全国エリアの捜索ネットワークを使って、山登りや災害における遭難者の居場所を素早くかつ正確に把握し、航空会社や防災ヘリなどの救助組織へ引き継ぐというもの。

ここ数年の傾向としては、年間約3,000人が山岳事故に遭い、約300人が死亡または行方不明になっているそうです。ココヘリは、遭難時の捜索費用が会員同士の互助によって成り立ち、登山者コミュニティ全体で登山の安全を確保するというデザインが施されています。それは曖昧な境界領域、すなわち「間」を生むサービスであること。今回のテーマに立ち戻ると、他社に対する「まなざし」を生んでいると言えるかもしれないですね。

磯野 いわゆる保険の原初の姿にも似ていますね。

原田 そう。コミュニティ全体でサポートをし合うことによって、人と人の間に線を引くのではなく、人と人との間を考えられ、互助の気持ちが芽生える。普段、税金を支払っていても、何のために支払うかという実感がないですよね。コミュニティをつくることによって、行政とは違う、互助や共助を実感できるんです。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e600286-803d-11ed-af7e-0242ac130002

磯野 小さい頃、わたしが住んでいた地域では「道普請(みちぶしん)」と呼ばれる、行政や業者によらない、地域コミュニティ全員の手による道路の草刈りや修繕が行われてきました。そうして、自分たちが住んでいる地域を自分たちで守っていた。

地域という領域では、自己と他者との境界はあやふやなことが多い。それは、隣の子どもがうちの畑で遊んでいるというようなおおらかさにもなりますが、同時に、隣の子どもがうちの野菜を台無しにしたという面倒くささも作ってしまう。「ここまでが自分の土地」というようなはっきりとした境界がないと、他者のような自己、自己のような他者とのやりとりはとめどなく続いていく。その面倒くささを避けようとすると、行政や業者が、道の草刈りを担うようになっていく。

それによって住民は、草刈り作業から開放され、人間関係の面倒くささからも開放されますが、一方で、違うものとの混じり合いが失われると、そのおもしろさも失われる。「面倒くささ」をどのように維持していくかについて、もっと考えていかなければいけないと思っているんです。

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面倒くさい人間の身体に付き合うこと

磯野 人間関係だけでなく、そもそも人間の身体も面倒くさいものですよね。身体は常に手入れが必要。たとえるなら、自分が暮らしている部屋のようなものです。常に整えておかないと、いつの間にかぐちゃぐちゃになってしまう。それは外部委託できない。そのような面倒くささをどうやって続けていけるか、面倒くさい場所からしか生まれないよきものがあるのではないか。それが、今わたしの考えたいことです。

原田 人間関係も、人間の身体も、人間の生活も、人間にまつわるものって、いつもぐちゃぐちゃしていますよね。

磯野 うん。コロナ以降、デジタル空間で人が結びつくようになり、身体の面倒くささを回避できることの心地よさを人が実感しているように感じます。それを示すことのひとつが、が、身体の比喩にテクノロジーの言葉が使われることです。「アップデートする」というような言葉を人生に当てはめることだったり、「親ガチャ」という言葉で母子関係を表現したり。

自分を変えていくためには、とても多くの時間が必要になるし、親が子供を生み、育てるためにも長い時間を必要とする。けれども、テクノロジーの比喩を使うと、一瞬で何かが決まり、変化が起こるような気分になる。単なる言葉の問題と捉える人もいるかもしれませんが、言葉は現実を作ります。「会話」を「飛沫の拡散」と言い換えると、その言葉が生み出すまなざしが変わるように。

加えて、テクノロジーの比喩には、いつも、対象が取り替え可能であるというニュアンスが含まれています。テクノロジーの言葉に当てはめることによって、あたかも、自分の身体が取り替え可能であるかのような気持ちにさせられるんです。

原田 テクノロジーの言葉が入り込むことによって、身体のイメージがテクノロジー化されてしまう、と。

磯野 違う観点でも、テクノロジーが身体に結びついた影響を見ました。数年前に渋谷のスクランブル交差点で、ハロウィンで酔っ払った若者が車をひっくり返す事件がありましたよね。わたしは人類学者として、これは「祭り」だと思いました。車を横転させられた人にとっては気の毒ですが、そういったハレの場は、人間が本来的に求めるものです。

しかし、最近、ミラーワールドの世界における倫理感をテーマとしたシンポジウムを聞いていたところ、「例えミラーワールドの中であっても、車をひっくり返してはいけない」という議論になっていて驚きました。ミラーワールドといった先進的な世界を語る若者にとっては、オンライン空間であっても、暴れることはあってはならないのかな、と感じました。テクノロジー的な倫理観が染み付いた身体は、いつどんな時でも同じ性能を叩き出すIT機器のように、高性能のまま安定していなければならないのではないでしょうか。

人間は車をひっくり返すこともあるし、道頓堀に飛び込むこともある。そのようなバグやいかがわしさが許容されないことは、生活を営む上で、とても不自由を感じると思います。

原田 いかがわしいこと、いびつなこと、異物やバグといったものが、社会の中から失われつつありますよね。デザイン領域として話を引き受けると、本来的に「整える」という発想を前提とするデザインにおいては、バグを生むことはとても難しい。でも、バグが生まれるのを許容することはできるかもしれない。

たとえば、前述の公共住宅のプロジェクトで、団地のエントランスに各棟の「顔」となるようなデザインを施したんです。そうすれば、何棟も建っている集合住宅でも「自分の家の入り口」と認識できます。

当初、住民はこの顔をすごく喜び、きれいに使ってくれていました。しかし、時間が経つにつれて、いつしかエントランスは自転車置き場になっていった。依頼主から「すいません」と謝られたのですが、僕はそれがすごく自然な人間の営みだと思いました。デザイナーの意図を尊重するのではなく、住んでいる人たちが使っていく中で、デザインを自分のものにしていったんです。

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磯野 そのように、バグが起こったり、異物が入り込んでいることをおもしろがれるのが大切ですよね。もちろん、それによって、危険が入り込むこともあります。たとえば、子どもたちに公園の遊具を自由に使わせたら、怪我をしてしまうかもしれない。

でも、そのリスクを最低限に減らす努力はしつつも、ゼロにしようとしないことが必要だと考えています。怪我をする確率をゼロにする最も簡単な方法が、公園を使わせないことですから。

生きていれば必ず変なことは起こるし、面倒なことは起こる。そのような面倒に遭うリスクをゼロにしようとすれば、すべてに線を引き、すべてに光を当て、すべてを管理してもらわなければならなくなってしまうんです。

原田 2030年代頃には、すべてが顔認証で管理されて「安全・安心」な街が出来上がってしまうかもしれませんよね。

ただ、今はまだ、すべてが管理されているわけではない。想像力を広げることで、そのような管理を食い止められるのではないかと思います。そのためには、想像力を養うための日々のレッスンが必要。デザインが「まなざし」を生み、他者への想像を掻き立てることが、「日々のレッスン」の手伝いになるのではないでしょうか。

磯野 デザインって、きれいに整えて「面倒くささを減らすもの」だと思っていました。でも、原田さんが今求めるデザインって「生きるために捨ててはならない面倒くささを残し続ける営み」なんですね。

原田 はい。デザインって、整えられているからなんとなく正解に見えるんですよ。でも、デザインが必要とされる背景には、ひとつの正解にまとめきれない複雑さがあるし、デザインが置かれるはずのこの社会だって、正解は誰にもわからない。正解のないデザインに興味を持つ人が、ひとりでもふたりでも増えたらいいなと思っています。

なんか、磯野さんとお話していたら、さまざまな別の問いが浮かんできました(笑)。ありがとうございました!

磯野 こちらこそありがとうございました。お話をしながら分かったのが、人類学もデザインも、「他者」という同じ対象を見つめていること。その中で、人類学は思想に軸を寄せていて、デザインはアウトプットに軸を寄せているという違いがある。人類学者とデザイナーが協働したら、きっと、おもしろいものが生まれるでしょうね。


原田 祐馬

アートディレクター/デザイナー|UMA /design farm 代表

1979年大阪生まれ。京都精華大学芸術学部デザイン学科建築専攻卒業。UMA/design farm代表。名古屋芸術大学特別客員教授。大阪を拠点に文化や福祉、地域に関わるプロジェクトを中心に、グラフィック、空間、展覧会や企画開発などを通して、理念を可視化し新しい体験をつくりだすことを目指している。「ともに考え、ともにつくる」を大切に、対話と実験を繰り返すデザインを実践。著書に『One Day Esquisse:考える「視点」がみつかるデザインの教室』。 *肩書・プロフィールは、ディレクター在任当時


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