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グッドデザイン賞で見つける 今、デザインが向き合うべき 課題とは

審査プロセスをとおして 社会におけるこれからのデザインを描く、 グッドデザイン賞の取り組み「フォーカス・イシュー」

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2024年度フォーカス・イシュー

「はじめの一歩から ひろがるデザイン」を考える

「プルリバース(多元世界)」から考える、デザインの「脱植民地化」──アルトゥーロ・エスコバル × 中村寛

2025.3.5

フォーカス・イシュー・リサーチャーの中村寛は、2024年度の提言として「内なるクリエイティヴィティとともに、自然-文化-経済(nature-culture-economy)のエコシステムを脱植民地化する」を打ち出した。その提言内容をいっそう深めるべく、対話を打診したのはノースカロライナ大学の名誉教授で人類学者のアルトゥーロ・エスコバルだ。


グローバル資本主義が世界を覆い尽くし、資本の論理によって社会や文化が規定される──この強力な流れに抗うことはできないのだろうか?

その対抗策として一つの視座を提供してくれるのが、エスコバルが提唱する「プルリバース(多元世界)」というコンセプトだ。2024年に日本でも翻訳されて話題を呼んだ著書『多元世界に向けたデザイン(Designs for the Pluriverse)』では、西洋近代資本主義的な単一の未来ではなく、場所に根ざした複数の未来をつくるための手立てを模索している。

本記事では中村とエスコバルの対話を通じて、多元世界に向けたデザイン、あるいはデザインと人類学の融合がひらく可能性を探る。

孤立を減らし、共同化を促すデザイン

中村 私は2024年度グッドデザイン賞のフォーカス・イシューにおいて、「内なるクリエイティヴィティとともに、自然-文化-経済(nature-culture-economy)のエコシステムを脱植民地化する」という提言を打ち出しました。提言の中でキーワードになっているのが「デザインの脱植民地化」──すなわち国家、人種・民族、階級、ジェンダー間の権力格差をデザインが反映してしまい、さらには強化してしまう構造からいかにして脱するかという問題です。今年度のグッドデザイン賞の受賞作の中には、この問題に向き合い、それを乗り越えていこうとする試みがいくつか見られました。今回ご紹介する3つの作品は、いずれも私の提言の理念を体現するものです。

まず一つ目が、最優秀賞にも選ばれた「RESILIENCE PLAYGROUND プロジェクト」。「障がいの有無に関わらず誰もが遊ぶことができる遊具」の開発を、医療と遊具の分野を越えて実現したプロジェクトです。彼らが発見したのは、重度の障がいや深刻な健康状態を抱えていて、難しい状態にあると思われていた子どもたちが、独自の方法で思い思いに遊ぶ姿でした。子どもたちの内なる創造的な活動を支えるデザインを施し、どんな人でも遊ぶことができる遊び場をつくったのです。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/22683

二つ目に取り上げたいのが「ばあちゃんビジネス」。あなたもご存知のように、日本は高齢化社会です。最近では「老害」という言葉が蔓延り、世代間に分断が生まれています。このプロジェクトは高齢化社会と高齢者に対する社会の態度を変えるため、75歳以上の高齢者が参加できる新しい事業体を立ち上げました。例えば「ばあちゃん新聞」は地元の町のおばあちゃんたちが自ら執筆し、自ら発行する、素敵なデザインの新聞です。地元の町に関するニュースや情報がたくさん掲載されています。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/27504

そして最後に紹介したいのが「women farmers japan」。農村部だけに限りませんが、日本社会には多くの場合、未だに男性の優位性が強く残っています。しかしこのプロジェクトでは女性農民たちが自ら支援コミュニティをつくり、今までの農業界にはなかった「コミュニティとビジネスの両輪を回す」というやり方で、農村女性の自立支援と山間地域農業の課題解決に挑戦しています。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/24662

これらの三つに共通しているのは、しばしばビジネスの世界では分断されがちな「文化」と「経済」を、独自の方法で再構築し、統合しようとしている点です。単なる利益追求のためだけに活動をしているのではなく、文化的な再生と、私たち一人ひとりのうちに秘められた創造性を引き起こすビジネスの形になっているのです。

エスコバル ありがとうございます。これら三つには、つながりやコミュニティを再認識すること、それにより孤立を減らし、共同化を促すデザインになっていることが共通していると感じました。「内なるクリエイティヴィティ」は「コミュニティのクリエイティヴィティ」ともつながっていると思います。

とりわけ私が住む、急進的な個人主義の国として知られるアメリカでは、より意味をなす取り組みだと言えるでしょう。日本やラテンアメリカではよりコミュニティの感覚が生きています。しかし、アメリカにおいて、基本的にコミュニティは存在しません。グローバル化は共同体の解体と活動の分散を急速に促しました──それは、共同体や集団のすべてに対する戦争でした。経済とテクノロジーにも後押しされ、個人化への圧力がより高まったのです。

あなたが紹介してくれた三つの事例は、市場主導・利益主導・消費主義・個人主義といった特徴を持つグローバル化の流れに逆行するものです。共同生活、ものづくり、小規模ビジネス、メディア、食、農業生産など、コミュニティや地域レベルでの創造的な実験や機会は数多くあります。これらの活動は地域の自治を創出したり、強化したりするでしょう。そうして地域の自治が強化されることで、自分たちのデザイン、自分たちの意思決定、あるいはコミュニティ内の遊びの価値が企業から独占されるのを防ぎ、みんなで一緒に何かを作り出すことの価値を維持できます。

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人類学者 アルトゥーロ・エスコバル

なぜ「経済」が分離し、特別視されるようになったのか?

中村 あなたが指摘するように、私が紹介した三つの事例は、いずれもグローバル化の力と急進的な個人主義に抗うものです。

その上で、あなたが『多元世界に向けたデザイン』で展開する議論にも繋げて対話ができればと思います。本書で説明される「多元世界(Pluriverse)」は、これまでの西洋中心主義や、植民地主義、資本主義といった価値観だけではなく、同じように多数存在し、つながりあっている別の世界のあり方に目を向けていく姿勢を表しています。今回私があなたに尋ねたいのは、人類学者/デザイナーとして、「多元世界のためのデザイン」をいかに推し進めることができるかということです。たとえば、支配的なデザインパラダイムと、ローカライズされたヴァナキュラーな(その土地ごとに固有の)知識の形式との橋渡しをする際に生じる課題を克服するために、どのような戦略を具体的に取りうるでしょうか?

エスコバル まず現代の行動や知識、存在や行動のあり方がどのように規定されたのか、ということから考えるべきでしょう。資本主義システムが発明されて以来、経済は急速に合理化されていきました。

その歴史を理解する上で、重要な本が二冊あります。一つは、フランスの人類学者であるルイ・デュモンが文化的な発明として経済の起源を研究した『マンデヴィルからマルクス:経済イデオロギーの起源と勝利』。もう一つがカール・ポランニーの『大転換: 市場社会の形成と崩壊』です。これらの本が示してくれるのは、西洋の歴史のある時点で、現実全体が断片化されたということ。つまり、実際はすべて連続した一つの現実であるはずのもの──経済、政治、宗教、文化、社会、個人──があたかも別個のものであるかのように断片化させたわけです。

ミシェル・フーコーが『言葉と物』でうまく分析していますが、近代のエピステーメー(編注:各時代の基盤にある知の総体的な枠組み)は、18世紀末に経済学、生物学、言語学の発展とともに結晶化しました。つまり、私たちが何よりも経済的な存在であるという考え方自体が、徐々に形成されてきたものであるということです。そして、私たちは今でも、「経済はいわゆる“自由”で“自己規制”された市場によって支配されている」というアダム・スミス以来の古典経済学的な設計図に従って生きています。本来、経済学は政治学、社会学、心理学、あるいは人文学などの一つの学問領域に過ぎないはずです。それにもかかわらず、私たちはどこか経済を特別視している。だからこそ、経済学者は社会の中で重宝されるのです。なぜなら彼らは物質世界で市場や生産・製造をコントロールするために不可欠な知識を持つ“司祭”とみなされているからです。

しかし、すべての社会がそうした区分──現実を自律的な領域(経済、社会、文化、政治など)に分割するという考え──に基づいて築かれたわけではありません。むしろ、多くの社会においては、私たちが経済と呼ぶものが文化、社会、宗教、精神とつながっているという、存在の連続体としておおむね保たれてきました。つまり、より全体論的な理解です。日本に代表される東アジアでは、仏教や道教、その他の精神的な伝統から、すべての生物が深く相互に結びつき、依存し合っていることを文化レベルで理解しています。

しかし近代になり、多くの点で文化は激しく引き裂かれました。そして、個人とコミュニティ、人間と非人間、自然と文化、人間と自然との間の相互依存関係も崩壊し、破壊されました──これが現代社会の「人間中心主義(anthropocentrism)」と呼ばれるものです。だからこそ、経済に対する考え方を変えるために、企業経済のような現代的な経済システムとヴァナキュラーな経済システムとの対話を構築することは難しいのです。

近代の経済学者やビジネスモデルは、個人を消費者の立場に置き、経済は一つであり、市場によって動かされているという前提で動いています。経済の目的は利益を生み出すこととされます。しかし、ヴァナキュラーなコミュニティでは、そうした前提はさして意味をなしません。もちろん、西洋の経済観が覇権を握ったことで、徐々に世界中のあらゆるコミュニティを侵食しているのも事実です。しかしそれでも、今回紹介してくれた三つの事例のように、その潮流に抵抗する手段は存在します。「生態経済学」や「サーキュラーエコノミー(循環経済)」、他にも「リジェネラティブエコノミー」や「フェミニスト経済学」、「社会的連帯経済」など、経済を別の視点で考えるための言語や概念、方法論が数多くあります。

私がとても気に入っている研究に、オーストラリアの地理学者でフェミニスト地理学者のキャサリン・ギブソンと、北米の地理学者ジュリー・グラハムによるものがあります。彼らがやったことは、「多様経済」と呼ばれるものの枠組みを構築することでした。私はそれを「多元的経済」と呼んでいますが、資本主義、オルタナティブ資本主義、非資本主義といった経済の枠組みをさまざまな視点から共存させて理解する方法論なのです。彼らはそのことを「ポスト資本主義の枠組み」または「ポスト資本主義の政治」と呼んでいます。

しかし、これらの研究が主流派となるにはまだ程遠い状況です。主流は依然として機械論的な個人中心、利益中心、経済の考え方であり、基本的に市場によって純粋に組織化されたものとして捉えられています。しかし私がここで言いたいのは、こうした経済思想の歴史的な背景を抑えないことには、あくまでもビジネスの表層的なレベルでオルタナティブな経済についての議論が終わってしまうということです。

デザインは「経済の多元化」への糸口となり得るか

中村 現代の企業社会は基本的にあなたが説明してくれた経済観に基づいており、より代替的な市場の捉え方である「ヴァナキュラーな経済」や「エコロジカルな経済」のような考え方を持っている場合、モダニズム的な考え方で枠組みが作られている企業社会と対話を交わすのは非常に難しいというわけですね。一方、キャサリン・ギブソンの研究をはじめ、現代の経済観や考え方を変え、再構築する新しい試みについても言及してくれました。

エスコバル その通りです。私はギブソン・グラハムがやろうとしていたことを「経済の多元化(pluriversalizing the economy)」と呼んでいます。つまり、経済を理解する唯一の方法としての、現代経済の存在論的な自然さを疑問視したいのです。西洋の近代的な経済理解が唯一可能なものとして、あるいは少なくとも最良のものとして当然視されていることに疑問を呈したい。西洋の近代的な経済観に組み込まれるのは、資本主義のインフラやイデオロギー、競争の物語、個人主義的で消費志向的な人間観などです。

資本主義経済の中で生きるための実践すべて──今述べたような経済と人間に関する物語、インフラ、資本主義、具体的なデザイン、そして、資本主義経済の中で私たちが日々行っている実践など──は長い時間をかけて発展し、確立された、複雑に絡み合った文明の複合体なのです。 それゆえ経済を存在論的に理解し、疑問を投げかけるのは非常に難しいのです。

中村 それでもあえて、その可能性について考えてみたいと思います。グローバリゼーションの潮流が地域経済に干渉し、地球全体を古典的・近代的な経済観の傘の下に追いやりつつあるとしても、 特にヴァナキュラーな知識や智恵には、アニミズムのような形で、習慣化された癖のようにして残る可能性もあると思います。たとえばラテンアメリカには、固有の感覚とともにスピリチュアリズムと呼びうるなにかが残っていて、日常生活や日々のルーティン、行動や習慣の中にそれらが表現される瞬間があるのではないでしょうか。日本にも似たところがあり、だからこそ、あなたが提唱する「多元世界(Pluriverse)」という概念は日本に生まれ育った者にとっても受け入れられやすいものなのでは、と考えています。

そして、デザインは経済のオルタナティヴなあり方を再考するための入口になり得ると考えています。ただし、歴史を振り返ると慎重にならざるを得ない部分もある。なぜなら、1950年代に始まったグッドデザイン賞も、当初はある種の工業デザインのための賞として始まったからです。しかしここ20年ほどの間、社会活動のようなものも「ソーシャルデザイン」として考えられるようになりました。そうした意味で、デザインが経済のモデルを再考する糸口になるのではないかと思うのです。

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2024年度グッドデザイン賞 フォーカス・イシュー・リサーチャー 中村寛

エスコバル はい、間違いありません。先ほどあなたがラテンアメリカでは多くのコミュニティ(特に先住民やアフリカ系住民のコミュニティ)が独自のスピリチュアリズムを維持しているという事実について触れてくれましたが、これらの精霊的な世界観や宇宙観、存在論が今日どのような意味を持つのかについて考える必要があります。理論的に問いかけることもできますし、実践的な応用につながる問いかけもできます。世界全体が生きているという前提と精霊的な世界観を出発点とした場合、デザインはどうなるでしょうか?

山や川が感覚を持つ存在であるという、ラテンアメリカの先住民たちが守り続けてきた宇宙観があります。ヴァナキュラーなコミュニティの人々は、そのことを理解しています。もちろんその感覚を持つ人の数はどんどん少なくなっているかもしれませんが、それでも多くの人が今でも理解しているのです。彼らは経済的成長や発展という物差しで物事を考えません。「Buen Vivir(善き生き方)」と呼ばれる、生命そのものを祝福する全体論的な生命観で物事を考えるのです。

では、彼らにとっての「Buen Vivir」とは何でしょうか? Buen Vivirとは、物質的・経済的な側面だけでなく、精神的な側面、文化的な側面、生態学的側面、精神性、先祖、コミュニティなどの観点を取り入れているものでなければなりません。 こうした考えは現代に蔓延る経済的な考え方とは異なる宇宙観、あるいは世界観なのです。

こうした「関係的存在論」は、世界中のさまざまな地域で観測されます。例えば、アフリカの哲学に「ウブントゥ(Ubuntu)」があります。南アフリカのズールー語で「あなたがいて私がいる("I am because we are")」という意味です。ウブントゥの考え方では、人間は独立した存在ではなく、他者との関わり合いの中で生きる存在とみなされています。そこには連帯の精神や思いやりの精神も含まれ、独立や個性を至高のものとは考えず、互いに助け合いながら生きるべきであるという考え方です。このテーマに関しては、最近、ミハル・オスターウェイル氏とクリティ・シャーマ氏という2人の同僚と共著で『Relationality; An Emergent Politics of Life Beyond the Human)』という本も出版しました。

中村 最近『ラディカル・ラブ』の邦訳(辻信一訳・上野宗則編集、ゆっくり小文庫)が出版されたということで、久しぶりに来日していた環境活動家・思想家サティッシュ・クマールの著書に、『君あり、故に我あり(You Are Therefore I Am )』(尾関修・尾関沢人訳、講談社学術文庫)というものがあります。彼はイギリス領インドの生まれですが、彼もまた関係論的な存在論を探っています。タイトルはデカルトの有名なテーゼを裏返しにしたものですが、この本のサブタイトルは、「A Declaration of Dependence」となっていて、「独立宣言」をひっくり返した表現になっている点も興味深いですね。

必ずしもべったり依存しあって生きましょうという宣言ではなく、すでに我々の存在自体が複雑なシステムのなかに相互依存的に関わり合っているという認識に支えられています。その点で、ブリュノ・ラトゥールの書いた『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』(川村久美子訳、新評論)での主張──我々は自然と文化、主観と客観、人間と非人間などと分割し、両者を二元論的に扱い、それぞれに純化させていく近代人だったことは一度もない──にも重なります。

デザイン人類学が「脱植民地化」への道をひらく

中村 関係的存在論は、私の研究および応用分野であるデザイン人類学にどのような影響を与えるでしょうか。ビジネス環境では依然として利益追求や効率性が第一に考えられる傾向が強くあります。しかし私は、デザインがトランジションに向けて代替案を提供できるのではないかと考えます。たとえば、行動変容を促そうとする場合、言語的なアプローチは人々を説得するための一つの方法に過ぎません。ですが、デザイン自体が現代的な思考を持つ人々を、非言語的に、視覚だけに限らずその他の五感を通じて説得し、経済の代替案を実際に形にするのを手助けすることができるのではないでしょうか。というのも、デザインが非言語的な特性を含んでおり、ロゴス中心主義的な理解の外に私たちを連れ出してくれるからです。ピエール・ブルデューがかつて「非意識的」なものとして定義したハビトゥスに、デザインが直接働きかけることができるのではないか、と。経済に対する代替案を促進するデザインプロセスに、関係性を視野に入れた思考をどのように組み込みうると思いますか?

エスコバル まず何よりも最初に成長、利益、効率、個人の歴史的・存在論的使命について再考する意欲を持つべきだと思います。成長至上主義が地球にとって非常に有害であることは周知の事実です。利益の追求は動機になり得ますが、唯一の考慮事項であってはなりません。異なる価値基準を開発しなければなりません。生態経済学には貨幣価値を超えた価値を活用するための一連の方法論があります。人間が行うことに価値を与える方法は他にもたくさんあるのです。社会は貨幣価値で測れるものよりも、はるかに豊かで広大です。

私がとても気に入っている本があります。ダニエル・ヴァールが書いた『Designing Regenerative Cultures』という本です。興味深いのは、この本が、人間中心の二元論的考え方から、相互依存やつながりを重視する考え方への移行について強調している点で、私たちの著書『Relationality: An Emergent Politics of Life Beyond the Human』と非常に似ていることです。彼は自身の理論を展開し、再生経済や再生デザインの実践例をデザイナー向けに非常にわかりやすく説明しています。この本は一例ですが、デザインの視点からオルタナティブな経済のあり方を模索する分野は成長しつつあるということです。また、経済学の根幹となる原則に疑問を投げかける動きも広がっていると思います。なぜなら、現代の主流派経済学として、新自由主義経済学が地球を破壊しているからです。今後は地域レベルで考え連携することで、ボトムアップでローカル経済をより大きな経済へと結びつけていけるかどうかを考えることが重要だと思います。

中村 興味深いですね。私が特に興味をそそられるのは、いわゆるグローバル・サウスやアジア社会、つまり、非西洋的な生き方や考え方が「逆転」の考え方を広めることの核心にあるということです。

最後の質問として、脱植民地化の取り組みについてお話しいただけますか。植民地主義は長年問題視されてきましたが、今でもその力学が働いていると感じます。その背景には、単に国家間や人種・民族間の権力の不均衡だけではなく、さまざまな観点での力の不均衡があります。そしてその不均衡は、必ずしも公平に知られたり、意識されたり、検討されたりするわけではありません。それがポストコロニアリズムの議論で問題となっていることです。

伝統的な開発モデルに対する批判を踏まえ、デザイン人類学がデザインそのものの分野における脱植民地化に貢献できるとお考えでしょうか? 私がこの質問をするのは、デザインには人々を再び植民地化してしまうリスクもあると思うからです。それでも私はデザインの代替モデルが新しい分野を創出すると思います。人々が植民地化の力学を再考し、自然と文化の分断を再考し、近代的な経済の枠組みを再考し、真に発展し、新しいアイデアを生み出すことができると考えます。脱植民地化のための取り組みとデザインをどのように評価していますか?

エスコバル あなたの意見に大いに賛成します。ただし、デザイン人類学の独自性は、デザインと人類学の両方の脱植民地化を強く求めることにあるのかもしれません。人類学は依然として脱植民地化が必要です。1970年〜1980年代には、人類学と植民地主義の絡み合いに対する真の批判がありました。支配的だった英米的な人類学に対抗するものとして、山下晋司氏などが主導し、単一の人類学を超えた多様化を試みる「世界人類学」と呼ばれた動きがありました。

しかし、学問としての人類学は、未だ完全に脱植民地化を遂げたとは言えません。脱植民地化は理論上だけで達成できるものではなく、実践を通じて追求されなければならない。その意味でもデザインは、主題と対象の関係を越えた実践に関与できる可能性を人類学に提供します。デザイン人類学の力は、対象を客体化することではありません。実際、過去20年間、人類学の分野では、デザインとの融合が模索されてきました。

ただし、まだ道半ばです。デザイン人類学のトレンドの多くは、従来のデザインの手法を心得る人類学者の育成、あるいは、文化についてより人類学的に考えられるデザイナーの育成に関するものだと思います。これは重要なことかもしれませんが、それだけでは不十分です。たしかにデザインと人類学の融合には多くの希望と可能性があると信じていますが、両者のつながりはより深くなる必要があります。

中村 強く同意します。近年のマルチモーダル人類学や応答の人類学、ビジネス人類学、マルチスピーシーズ人類学などは、西洋的な知のあり方、とくに表象的な知の生産を超え、オルタナティヴな知のありようを模索する試みに見えます。ですが、あなたが指摘するように、まだアカデミックな世界にとどまるものがほとんどです。デザインと人類学の表面的な融合を超え、両者がそれぞれの無意識の前提や方法を揺さぶりあう関係がつくられるとき、新たな実践が生成するように思います。

今年度フォーカス・イシューの活動を総括したレポート『FOCUSED ISSUES 2024 はじめの一歩から ひろがるデザイン』では、グッドデザイン賞の審査や受賞者・有識者へのインタビューを通じて得られた新たなデザインのうねりとその具体例、そして「うねり」を未来へつなげるためのアクションやヒントをまとめています。詳しくはこちら。 → はじめの一歩から ひろがるデザイン:2024年度フォーカス・イシューレポート公開


アルトゥーロ・エスコバル

1951年、コロンビア生まれの人類学者。米国ノースカロライナ大学チャペルヒル校名誉教授。コロンビア、カリのバジェ大学環境科学博士課程兼任教授。


中村 寛

人類学者|多摩美術大学教授、アトリエ・アンソロポロジー代表、KESIKI Inc.デザイン人類学者

文化人類学者。デザイン人類学者。多摩美術大学リベラルアーツセンター教授。アトリエ・アンソロポロジー合同会社代表。KESIKI Inc.で Insight Design担当。「周縁」における暴力や脱暴力のソーシャル・デザインといった研究テーマに取り組む一方、様々な企業、デザイナー、経営者と社会実装を行う。多摩美術大学では、サーキュラー・オフィスや Tama Design UniversityのDivision of Design Anthropologyをリード。 著書に『アメリカの〈周縁〉をあるく−―旅する人類学』(平凡社、2021)、『残響のハーレム−―ストリートに生きるムスリムたちの声』(共和国、2015)など。


長谷川リョー

ライター

文章構成/言語化のお手伝いをしています。テクノロジー・経営・ビジネス関連のテキストコンテンツを軸に、個人や企業・メディアの発信支援。主な編集協力:『10年後の仕事図鑑』(堀江貴文、落合陽一)『日本進化論』(落合陽一)『THE TEAM』(麻野耕司)『転職と副業のかけ算』(moto)等。東大情報学環→リクルートHD→独立→アフリカで3年間ポーカー生活を経て現在。


今井駿介

フォトグラファー

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。


小池真幸

エディター

編集者。複数媒体にて、主に研究者やクリエイターらと協働しながら企画・編集。