この記事のフォーカス・イシュー
時間がかかるデザイン
見えない相手への豊かな想像力を育むために。人間性をつなぎ直すデザイン
2022.03.28
人間のキャパシティを超えた社会で、増え続ける当事者たち
一般にデザインは、「何かを解決するもの」と理解されていると思います。しかし、それは一般に思われている以上に、容易ならざるものです。
私は普段、障害のある人やマイノリティとされる人たちと活動する機会が多くあります。その中で、この社会がいかにそうした人々に適応できていないかを日々実感しています。
例えば、車椅子ユーザーが抱える不便に対して、「スロープやエレベーターを設置すれば解決できる」と思ってしまっている人は多いでしょう。しかし、そのスロープやエレベーターへ行くまでの動線の案内がなくてわかりづらく、たどり着くのがまず大変という場合が多くあります。他にも、局所的なデザインで解決できると思ってしまい、想像力が欠如している事例は多々あります。
点で問題に対処するのではなく、線や面で考える──その人が自分と同じく日々の営みを行っていて、その中でどのような経路で、そこにたどり着くのかを想像する──ことができていれば、そのような問題は起こらないはずです。一つのプロダクトやサービスで解決できるのは、問題のほんのわずかな領域に過ぎません。「解決する」とは、本来とても大変なことなのです。
社会がさまざまな問題の当事者たちに適応していくには、一人ひとりの想像力の範囲を少しずつ広げ、これまで想定されてきた社会規範やルールから見落とされてきた人たちとともに、どのようにより良い社会を作っていけるのかを考えられる人間を育てることが必要です。
そのためには、常識に囚われない柔軟さを持って、目先の利益のためではなく少し先の未来のために行動を起こせるような人間性を育むことが必要です。それは一朝一夕でできることではないですし、何か革新的なプロダクトやサービスひとつで変わるようなことでもありません。自分が生きている間には実現しない社会の姿かもしれません。
こうした課題意識から、「時間がかかるデザイン」というテーマを設定しました。
しかし、対象としているのは、障害のある人やマイノリティの人たちに限った話ではありません。
確かに障害のある人たちは、主にマジョリティ向けに設計された既存の社会・経済システムに含まれておらず、生きていくうえでのさまざまな問題を、その身体で直に引き受けています。しかし、いわゆる「障害のある人」ではなくても、そうした問題が「実は自分と関係している」と感じている人は意外に多い。例えば、障害のある人と活動を始めるようになってから、「健常者」だと思われている人たちやその家族から、マジョリティの世界にいることの生きづらさやその人が感じてきた社会的排除について“カミングアウト”を受ける機会が増えました。「時間がかかるデザイン」は、障害の有無といった一つの軸だけでなく、多面的に一人ひとりと社会との関係性を見つめることから始まるのです。
これまでマジョリティとされてきた人たちの「実は無理してきたことに気づいてしまった」「取り残されている感じがする」といった声が増えている大きな要因の一つには、急速な技術の進歩があるでしょう。デジタル化が進み、より複雑化した現代の生活や社会は──環境的にも、経済的にも、個々人のウェルビーイング的にも──私たち人間のキャパシティを超えてしまっています。
それにもかかわらず、これまで多くの人が不自然と思わず、技術革新を推進し続けてきた。その弊害は、地球規模での環境問題という形で表れてきただけでなく、自分自身を含めた社会全体がこれまでのやり方では限界を迎えつつあることに気づく人が増えてきたのです。
今まで無自覚に推し進めてきたことが、果たして本当に必要なことだったのか。それは自分により良い人生をもたらしてくれたのか。今、問い直すべきタイミングを迎えています。
時間がかかる問題との、最初の「接点」をデザインする
「時間がかかるデザイン」を考えるうえでヒントを与えてくれたプロジェクトは、環境問題やエネルギー問題、都市開発といったマクロな視点に立脚したものではありません。また、特定の当事者や用途に応えるようなものでもありません。
「人」に力点を置いた受賞作、言い換えるならば、自分で考えることのできる人間をつくる取り組みです。自分以外の人やモノ、環境について、より豊かに想像できる人を生み出すようなプロジェクトに着目したいと考えました。
まず印象に残ったのは「志摩の家」。地域の病院に勤務する夫婦が、医療系インターンの学生や研修医たちが泊まれる寮のような機能を自宅に設け、地域の人たちと交流できる場所としてつくったものです。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e59d2dc-803d-11ed-af7e-0242ac130002それまで、インターン生の宿泊先はホテルというのが一般的でした。ホテルと病院を往復するだけの日々で、地域の文化やコミュニティに触れるための空間や接点は、デザインされていなかったのです。
そのため「この地域で働きたい」と思うきっかけがなく、学生たちは機会の存在は知りつつも、実際にその選択をするのは難しい状況にありました。働く選択肢は他にもある。そこに自分が人として暮らしていく姿を想像できるかは、大きな分かれ道になるでしょう。
インターンに来た学生たちが成長し、仲間を増やす。そして、いつかその地域に戻ってきて、地域医療が充実する──志摩の家は、その最初の接点になっています。一度に収容できる人数は多くないし、時間もかかりますが、地方の医療従事者不足という問題に質的な影響を与えうるプロジェクトだと感じました。
「最初の接点」という観点では、子どものための建築教育をテーマにした書籍「はじめての建築」も印象に残りました。
人はみんな、何らかの家に生まれ、建物に囲まれて暮らしています。それにもかかわらず、自分の住んでいる建物に対して疑問や関心を持ったり、学校で建築について教わったりする機会はほとんどありません。
建築は総合芸術でもあります。数学や工学といった理系的な視点でも捉えられますし、歴史や文化、芸術、社会といった文系的な視点でも捉えられる。建築を通じて、文理を超えたさまざまなものの見方や関連性が学べるにもかかわらず、建築学科などの専門分野に進む人、言わば「つくる人」以外は、建築についてほとんど知らない。これは非常に不自然な状態だと感じていました。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e604d10-803d-11ed-af7e-0242ac130002はじめての建築は、身の周りにある生きた建築を題材に、それらを見るための視点や、建築が自分たちの文化や社会にどのような影響を与えているのかを考える機会をつくっています。
もちろん、この本やイベントだけですぐに大きな効果や効能が出るようなものではないと思います。しかし、幼い頃から建築に触れ、その見方を身につけた子どもが大人になったら、選ぶ職業も変わってくるでしょうし、ものや街の見方や文化の伝え方にも変化が生まれるでしょう。時間はかかるけれど、その土地の文化的な豊かさにつながっているプロジェクトの一例だと感じました。
目に見えない相手への想像力を生み、断絶したコミュニティに接点を取り戻す
「想像できる人を生み出す」という観点では、地域の生活困窮者と寄付者をつなぐプラットフォーム「北長瀬コミュニティフリッジ」も印象に残りました。
「食料品や日用品を寄付するためのプラットフォーム」という類の取り組みは他にもありましたが、北長瀬コミュニティフリッジはターゲットを明確に「地域の生活困窮者」に絞っています。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e60c85f-803d-11ed-af7e-0242ac130002地域の人を対象とすることは、自分と同じ風景や経済を共有する地域に困っている人がいることを想像する機会につながります。そして、目に見える相手に直接何かを提供するのではなく、寄付されたものを通じて間接的に「困ったときはお互い様」なコミュニティが実現している点が、このプロジェクトを見る上での重要な視点です。
障害のある人たちと接していると、「お互い様」の関係性を感じることがよくあります。例えば目が見えない人の中には言葉の整理能力や類推能力が高い人がよくいて、目が見える人は漠然と過ごしていることを、状況や文脈から「こういうことを言っているんだな」とパッと頭の中の引き出しから呼び出し、論理的に会話を構築したり補完してくれたりします。
例えば、私はよく携帯電話の充電器を忘れるのですが、目の見えない友人が「私が充電をした」と記憶してくれていて、帰り際に私が充電器を外す素振りや音の情報がないと、「田中さん、また充電器忘れてるよ」と帰り際に教えてくれたり、持ってきてくれたりすることがよくあります。一方、彼と外に出かける時は私が介助する側でもありますが、それは彼が一人で歩き回れない社会だから起こることで、助ける/助けられるという関係性は常に流動的なものだと思わされます。
コミュニティが細分化・断絶され、自己責任が強調されるなか、そうした「お互い様」が減ってしまっている。それは、どの地域も共通して抱えている問題だと思います。だからこそ、たとえ限られた人同士であっても、コミュニティフリッジのようなセーフティーネットがあることで、地域の人たちが他者への想像力を持てる機会があることはその共同体のキャパシティにとっても重要だと考えます。
生き方の多様性を支える、「アイドリング」のための空間
「時間がかかるデザイン」を考えるとき、大賞を受賞したこの作品に言及しないわけにはいかないでしょう。障害のある人でも遠隔操作可能な分身ロボット「OriHime」を活用し、障害当事者の就労の選択肢を広げた「分身ロボットカフェDAWN ver.β」です。
健常者と障害のある人たちの接点を生み出していること、そして、障害のある人がサービスを提供し、健常者がそれを享受するという役割の逆転に最初は目がいくかもしれません。しかし私は、障害当事者にとっての社会参加の選択肢を広げている側面、すなわち「カフェでの労働を通じて、彼らがどのように人生の中で偶然性を持てるか」という観点からのデザインに着目しました。
多くの人の目に留まる障害のある人とは、“選ばれし人”、ものすごい個性や才能を持ち、メディアに出ることを恐れず、精力的に活動している人だけです。例を挙げるならば、乙武洋匡さんのような人。もちろん、そうした人々が果たしている役割はとても大きいし、ロールモデルは必要です。でも、障害のある人の中には、「自分はああはなれないよ」と思っている人もたくさんいます。それは、マジョリティも同じだと思います。みんながオリンピック選手やノーベル賞を目指すことはできないし、目指したいわけでもない。
乙武さんのようになることが、唯一の正解ではありません。“選ばれし人”だけが活躍する社会には、未来がありません。障害があることによる大きな困難の一つは、マジョリティと比べて、計画しないことによる失敗や無駄、そして偶然の機会が得られないことだと思います。
まず、常に計画し、予め決まったことをこなすだけでも困難を伴う社会の設計となっていること。そして、障害のある人は“欠陥”や病気を克服することが優先されてきたため、言わば障害のある人の生き方の多様さや豊かさは、二の次とされてきたのです。大多数の、“普通”の人たちの社会参加の機会を、偶然性を含めてどうデザインできるのか。これはとても重要なテーマです。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e60a2ab-803d-11ed-af7e-0242ac130002関連記事:吉藤オリィ×田中みゆき|「偶然の出会い」はデザインできるのか?
カフェで働き続けたければそうすることもできますし、チャンスを得たい人は就職に向けた出会いの場としても活用できる。「リハビリ」「研修」「就職」という固定的な流れをつくらず、「どういう選択をしてもいいよ」というスタンスをとる分身ロボットカフェ。アルバイトやインターンなどでは普通にあることですよね。そんなふうに、ここは当事者たちが役割を持つことでただそこにいられる、アイドリングの場としても機能しています。
冒頭で指摘したような現代社会の歪みは、合目的性を重視し、成長を後押ししすぎてきた結果生まれた側面もあるでしょう。目的に特化し、細分化された場所が今の社会には多すぎるのではないでしょうか。
ただそこにいることができる場所が、街の中でどんどん減ってきています。特に障害のある人は、街中で佇んでいると助けが必要と判断され、目的なく「ただいる」ということがなかなか許されません。
そうではなく、時間を過ごす中で、普段会うことができない人と偶然出会い、交流することも成長することも選べることを可能にしたという点が、このプロジェクトのポイントです。
目的を先鋭化させすぎないことは、「時間がかかるデザイン」を実現するために重要な要素の一つと言えるでしょう。作り手が当初想定していた目的があったとしても、それ以外の方向に転ぶ可能性を想像したり、許容したりすることをデザインのキャパシティとしてどう包摂できるでしょうか。
小さくサステナブルな取り組みの積み重ねが、耐性を生む
2021年度グッドデザイン賞で印象的だったのは、個人や小さな組織によるプロジェクトにとても活気があり、それらが重要な役割を果たしているということです。例えば、地域の災害に備える銭湯「神水公衆浴場」も、志摩の家と同様、個人の住宅を拡張する形でできた作品です。ここまでに挙げた別の作品についても、大きな組織が手がけているものはありません。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e59d620-803d-11ed-af7e-0242ac130002私は、こうした「小さい」プロジェクトが増えることは大切だと考えます。というのも、「時間のかかるデザイン」は、共感を得られたとしても、短期的にはビジネスとして成立・持続させることが難しい場合が多い。経済性を追求しづらい領域だからこそ、「自分たちのできる範囲で社会を変えていこう」という意思を持った個人によるプロジェクトと相性が良いのだと思います。
「小さい」プロジェクトでも、大きく社会を変えることは可能です。個人や小さな組織が主体だからと言って、生み出せる社会的インパクトが小さいというわけではありません。
志摩の家について、審査を担当した建築家の手塚由比さんは、「『自分の家を作ることは、自分の生活を作るだけではなく、社会も変える』とみんなが考え始めたら、社会は一気に変わる」とコメントされていました。
私自身、その言葉は本当にその通りだと感じました。「社会システムは公共機関が管理するもの」という考え方自体が、通用しない社会になってきています。プライベートな家や小さな営みも、その意思が積み重なれば、大きく社会を動かせる。そのことを認識しているであろう活動が、今回しばしば目に留まりました。
「小さい」ことは、その分「柔軟に動ける」ということであり、サステナビリティにもつながります。最初から大きくつくりすぎず、「これなら続けられる」と思ったら、少し手を広げればいい。その根底にも「人間を想像すること」があるのではないでしょうか。
キャンプ場経営から始まり、木材加工業、林業からはちみつの製造・販売とさまざまに事業を拡大させているきたもっくの事業群は、そのような取り組みの一例です。プレゼンテーションでも「アジャイル開発」というキーワードが出てきていましたが、小さい単位で開発を繰り返していくことが重要であり、きたもっくはそれを地で行っているプロジェクトだと感じました。
全国展開のような大きな目的を最初から掲げる必要はないと思います。より良い場を作るためにどうすればいいのか考えながら、少しずつ建て増ししたり、機能を増やしたり、外でキャンプをできるようにしたりする。そうした思考錯誤の積み重ねと考え続けることそのものが、このプロジェクトをあらゆる環境や人の変化にも倒されない、耐性を持ったものにしていると言えます。
https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e60777f-803d-11ed-af7e-0242ac130002これまでと異なる社会の評価軸をどうデザインできるのか
最初の「接点」のデザイン、目に見えない相手への想像力の喚起、アイドリングのための空間設計、小さな組織でのプロジェクト推進……「時間がかかるデザイン」の実践において、重要だと思われる要素を列挙してきました。
これらに加えて、最後に一つだけ、強調したいことがあります。
それは、冒頭で触れた「当事者の広がり」です。
障害のある人たちやマイノリティと呼ばれる人たちだけではなく、結局誰もが何かしらの当事者であり、無関係の人はいない。コロナ禍の影響もあり、自分も社会構造の歪みがもたらす問題の当事者であるという自覚を持つ人がとても増えてきたと感じます。
もちろん、そのことが、障害当事者がまだ十分に獲得できていない権利を相対的に軽視することにつながるようなことがあってはいけないと思います。むしろ、障害/健常という曖昧な基準が議論されないままそれぞれを分断してきた社会に自分も加担し、恩恵を受けてきたことを一人ひとりが見直すことが必要とされているのです。そしてそのことが、自分の社会のキャパシティをも狭めてきたことを自覚することが必要です。
これまで私たちはセグメント化され、そのうえで多様なプロダクトやサービスが生み出され発展してきた部分がありましたが、これからは、そのような安易なラベリングは通用しないのではないでしょうか。何かの属性で人を分けたり判断するのではなく、不確かさや複雑さを持った一人ひとりの個別性と対峙することが求められてきていると感じるのです。
さまざまな意味で、分断されてきた人と人、あるいは一人の中、社会の中にある人間性をつなぎ直すタイミングを迎えているのではないでしょうか。
それは社会としては効率が悪いことですし、成長を目指すのとはまた異なる社会のあり方や評価軸が必要となってきます。個人の中にある複雑さを受けとめる態度や知性を、どのように共同体として醸成していけるのか。そこにデザインがこれまで培ってきた、問題を共有する力や人を想い、つなげる力を使えないものだろうかと思うのです。
田中 みゆき
キュレーター/プロデューサー
アートセンター等の勤務を経て、「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに活動を始める。価値が定まる前の表現の捉え方を多様な鑑賞者とともに実践する。近年の企画に、『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場、2017~19)、映画『ナイトクルージング』(2019)、『オーディオゲームセンター』(2017~)。2018年より東京工業大学リベラルアーツ研究教育院非常勤講師。2020年大阪・関西万博日本館基本構想策定クリエイター就任。21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」にて展覧会ディレクターを務める。 *肩書・プロフィールは、ディレクター在任当時