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グッドデザイン賞で見つける 今、デザインが向き合うべき 課題とは

審査プロセスをとおして 社会におけるこれからのデザインを描く、 グッドデザイン賞の取り組み「フォーカス・イシュー」

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この記事のフォーカス・イシュー

「わたしたち」のウェルビーイングをつくるデザイン

「わたし」の尊重と、「わたしたち」の協働。その両立をデザインするために

2023.03.09


固有な「わたし」を前提に、「わたしたち」という協調的な主体はいかに立ち上がるか?

わたしが今年のフォーカス・イシューで設定したテーマは「「わたしたち」のウェルビーイングをつくるデザイン」です。その設定意図を説明する前に、そもそも「ウェルビーイング」とはなにか、少しだけ解説させてください。ウェルビーイングとは、心身および社会的関係性の充実によって、いきいきと生きていける状態をしめす言葉です。物質的な豊かさのみならず、精神的な豊かさを追求する機運が世界的に高まっている中、ウェルビーイングの研究や実践はポストSDGsの要となる概念として注目されています。

わたしたちは今、地球温暖化、新型コロナウイルスのパンデミックやロシアによるウクライナ侵攻、そして人種やジェンダーに対する差別といった数多くの危機を迎えていますが、このような状況においてウェルビーイングを前提にしたプロダクトやサービスのデザインは、持続可能な社会を構想する上で一層重要になっています。

他方で、世の中に存在する多くのデザインは、まずは一人のウェルビーイングを満たすために作られていることが多いといえます。そこから副次効果として周りの人との関係性が充足する場合もありますが、基本的にはひとりひとりにとっての利便性や効率性が考えられてきたといえるでしょう。

ウェルビーイングの学術研究も、当初は個人主義的な文化的価値観が強いといわれる欧米社会において多くの研究がなされてきました。その結果、個々人のウェルビーイングを構成する因子(原因となる要素)については知見が蓄積されましたが、より他者との関係性を重視する日本やアジア諸国のような文化圏においては、別の力学が働いていることがわかってきたのです。その一つの可能性として、わたしは日本やアジアの社会において、「わたし」だけのウェルビーイングではなく、同時に「わたしたち」のウェルビーイングについて調べたり、アプローチする方法について仲間たちと研究してきました。

「わたし」と「わたしたち」の違いについて、プロダクトやサービスをデザインする文脈においても考えてみましょう。たとえば、ひとりの「わたし」にフォーカスした結果、男性用/女性用、子供用/大人用、若年用/高齢用といった社会属性ごとの細分化が起こったり、逆に本当は異なる属性の多様な人々をひとつの同質的な集団として捉えてしまうということが起こったりします。

コロナ禍がはじまってから社会の分断や孤独の問題が取りざたされていますが、その意味でもこれからは異なる属性や特徴を持つ人同士の関係性をより積極的にとらえ、そのケアや支援につながるデザインが求められていると考えます。デザイナーは、二人だけの関係から始まり、特定の地域や都市までの広い範囲で「わたしたちのウェルビーイング」をデザインすることができるでしょう。

プロダクトやサービスといった、わたしたちの生活を取り巻くモノやコトは、ただ単に使われる道具として存在しているのではなく、触れ合うひとりひとりの人間、そして人間同士の関係性の在り方に深く影響するからです。わたしが研究で参照するメディア論という学問は、「メディアはそれ自体がメッセージである」というマーシャル・マクルーハンの言葉から出発していますが、そこでは世界への働きかけ方や認識の仕方に関わるあらゆる道具がメディアとして捉えられます。プロダクトを介した人間の行動において、ウェルビーイングの種子がどのように生まれたり、もしくは阻害されたりするのかという問いはわたしの研究の核心を成すものであり、今回のフォーカス・イシューのテーマとしました。

注意しなくてはならないのは、この際、ひとりひとりの「わたし」が固有の存在であるという前提を立てた上で、どう「わたしたち」という協調的な主体性が作動するのかということを考える必要がある点です。「わたしたち」なき「わたし」だけでは包摂的な社会は望みようもありませんし、「わたし」なき「わたしたち」では全体主義のような、同調圧力の地獄につながるでしょう。

「異床同夢」型のデザイン、「同床異夢」型のデザイン

以上のようなことを考えながら、2022年度のグッドデザイン賞審査を務めました。そこで、「異なる社会属性の人たちが協調できるデザイン」、そして「同じ属性であっても互いの差異に気づき、学ぶことができるデザイン」という軸が存在することに気が付きました。前者を「異床同夢(いしょうどうむ)」型、後者を「同床異夢(どうしょういむ)」型と呼んでみます。このふたつの軸に共通するのは、「わたしたち」とは、異質な「わたし」同士が、互いの差異を価値として認めながら共に行為する主体である、という認識です。異なる属性と特徴を持つ人同士の共生を支援するためのサービスやプロダクトのデザインは様々な文脈において見出すことができます。

以下に、この2つの軸に沿いながら、「わたしたちのウェルビーイング」というテーマについて示唆を与えてくれた2022年度のベスト100受賞作を紹介していきます。

NHKの「ローカルフレンズ滞在記」は、北海道の各地域に番組ディレクターが一ヶ月滞在し、地元の人々をローカルフレンズと呼び、彼らが主体となって地元の「宝」やニュースを伝える番組制作を行っています。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/10227

この取り組みでは、従来のようにテレビ局が一方的に取材を行って制作するという中央集権型ではない放送のあり方が模索されているように思えます。NHK職員はあくまで放送のプロとしての媒介者となり、各地域の人々が伝えたいことを選び、自らつくっていく。

このプロセスの結果として、放送局側にとって都合の良い、わかりやすいレッテル貼りやカテゴライズから離れ、当地に住む人々が望むイメージが多様なニュアンスごと視聴者に伝わります。この事例は放送局員と地域の人々が協働するという意味で「異床同夢」的でもあり、地域の人たちの多様性が映し出されるという意味で「同床異夢」的にも見ることができる点で興味深いものです。

慣れ親しんだ場所を離れて、別の場所に移り住むという体験は、いわば故郷が増えていく経験です。わたしもこれまで16回引っ越し、3つの異なる国で暮らしてきましたが、いまでは長く住んだ街のいずれかに戻ると、それぞれの場所に固有の不思議な安心感を味わいます。しかし、親の転勤などの不可抗力によって移り住むケースはあれども、子どもが望んで別の地域に渡るのはいまだハードルが高いでしょう。

日本国内で多地域就学のモデルを提示する「デュアルスクール」は、都市部と徳島県の両方の学校生活を送ることができる仕組みです。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/7901

住民票を移動しなくても「転校」ができる仕組みを設計することで、子どもにとっては別の街に短期留学するような体験が可能になります。これは、受け入れる側の人たちにとっても、新たにやってきた人から新しい知識や感覚をまなぶ機会にもなるでしょう。旅をする子どもにとっては複数のホームができていくことで、「わたしたち」の範囲が拡がり、世界に対する信頼や安心が増すのではないかと想像します。また、子どもに連れ添う保護者たちもまた、現地の大人たちとの中長期的な交流を通して、相互の価値観にゆらぎをもたらすでしょう。多地域就学のモデルが広まることにより、ひとつの場所に異なる背景や文脈をもつ人たちが混在する「同床異夢」型のコミュニティが増えていくと考えられます。

チャプターファクトリーは、同じホテルに泊まる旅客たちが、互いの京都についての経験から学びあえる、「同床異夢」を可視化するような取り組みです。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/13191

ホテルの客は、ロビーの共用スペースにレイアウトされているたくさん一筆箋を自由に眺め、気に入ったもののコピーをもらえます。そうして同じホテルに泊まった名前も顔もわからない誰かの経験を追体験してみることができる。わたしも実際に宿泊してみて、あるカードに書かれていた喫茶店の記述に惹かれて、そこまで歩いてコーヒーを楽しんでみました。また、わたしが愛する京都の珈琲屋さんについてのカードが書かれていないことに気づき、実際に手書きで一筆箋をしたため、ここにいつか泊まるであろう誰かに向けて投稿してみました。

旅の醍醐味は予測しなかった人や風景と出会い、予定がゆらぎ、そこから自分だけの思い出が生じ、その土地への愛着がうまれるという体験でしょう。コロナ禍を通してそのような偶然の出会いの確率は自ずと減りましたが、チャプターファクトリーは多様な人々の気配を醸し出し、そこからゆるやかな「わたしたち」の輪郭が生まれる、不思議な共在感覚のデザインだと思います。

また、優れた「異床同夢」型のデザインも多く見つかりました。たとえば、「Tactile Graphic Books」はその優れた事例です。晴眼者と視覚障害者のこどもでは通常、異なる本が与えられます。しかし、この本は一冊の本の上に、グラフィックの視覚情報と点字の触覚情報が統合されているため、目の見える子と目の見えない子が同じ本で学ぶことができます。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/11735

属性によって分け隔てるのではなく、異なる特性を持つ人同士が同じ場で体験を共有できることを示した「Tactile Graphic Books」のデザインに、大きな感銘を受けました。たとえば、音が聞こえる人と聞こえない人は、2019年度のグッドデザイン金賞を受賞した、音を触覚で感じられるデバイス「Ontenna」を付けることで、同じ音を異なる方法でわかちあうことができます。互いの差異をそのまま活かしながら、「わたしたち」という意識で知覚を協働できるデザインの可能性を垣間見た気がします。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e073de5-803d-11ed-af7e-0242ac130002

同じように、異なる体の特性を持つ人々が同じゲームを遊べる「Xbox Adaptive Controller」も「異床同夢」型の「わたしたち」を形成する作品だと見受けられました。ゲームはその主要なインタフェースであるコントローラーが手の指を中心に据えられていることを前提にしてデザインされてきましたが、指が動かせない場合は、コントローラーの複雑な操作は難しくなってしまいます。そこで、さまざまな障害や体の特性に応じて、コントローラーの配列を柔軟に配置しなおしてしまおうというのが、このXbox Adaptive Controllerの思想です。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/13787

実際にこのコントローラーを用いることで、複雑な操作を要するゲームを思うようにプレイできた人々の笑顔からは、自由を取り戻したような喜びが感じられました。いずれは障碍の有無を問わず、どのような体であっても、同じゲームで遊ぶことができるようになるのかもしれません。

異なる世代の人々がそれぞれ楽しめる同じ場所のデザインという点では、今年のグッドデザイン大賞を受賞した「まほうのだがしやチロル堂」が想起されます。奈良で地域の子どもたちの成長を支えるチロル堂は、昼間は子ども向けの駄菓子屋で夜間は大人向けの居酒屋に変身するお店です。入口にはガチャガチャが置かれていて、100円で回すと、チロルというチケットが一枚から三枚、ランダムで入っています。このチロルは一枚100円の価値がありますが、「魔法」がかけられており、子どもはチロル一枚で500円のカレー等が食べられます。魔法の内実は、夜になると大人が集う居酒屋に変わり、大人たちが飲食費の中にチロルを寄付する(チロる)料金が含まれています。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/10335

もともと子ども食堂の運営経験のある方が開いたチロル堂では、「分断しない福祉」というコンセプトをもとに、子どもと大人の二つの層に対するデザインが光っています。困窮家庭の子どもとそうではない子どもの経済的な境界線が曖昧になり、お金をたくさんもっていない子も他の子と同じようにご飯が食べられ、経済事情の違いを意識せずに集える場として設計されています。そして大人たちにとっても、寄付するという認知コストを働かせることなく、純粋に飲食を楽しむだけで地域の子どもたちを支えられ、いきいきとした場づくりに貢献できます。ここでは、大人とこどもが自然に、ゆるやかに「わたしたち」としてつながる構造がみえます。

同様に、異なる世代の人同士が関係できるデザインとして、ベスト100に選出されたサービス付き高齢者向け住宅「銀木犀」も、今後の超高齢化社会におけるポジティブなライフスタイルを提示しているように思います。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/13773

銀木犀では、高齢の住居者の方々が施設のなかで近隣の子どもたちを相手にお店を営んだり、近くに住む人たちが利用できる小さな図書館を営むなど、同じ地域で住むより若い世代の人々と対等な関係性で共生する工夫がなされています。この事例をみて、わたし自身、共働き夫婦で子供一人と都市生活を営むなかで、地方に住む父母たちに加えて、第三、第四のおじいちゃんやおばあちゃんとして接してくれる方たちの存在に助けられていることを思い出しました。銀木犀のコミュニティデザインは、血縁を超えて、同じ場所に住む異なる年代の人たちが拡張された家族観を提示しているように思えます。

地域における「わたしたちのウェルビーイング」のデザインという観点では、2018年度にグッドデザイン大賞を受賞した「おてらおやつクラブ」も思い出されます。地元民からお寺にお供えされたおやつの余剰を経済的に困難な状況にある家庭の子どもに届ける寺院とNPOのネットワークとして、2023年1月時点において全国にある1,800以上のお寺が参画し、毎月約2万5,000人(述べ人数)の子どもが支援を受けています。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e00fe69-803d-11ed-af7e-0242ac130002

おてらおやつクラブでは、同じ地域に住んでいるけれど経済状況が異なる人同士が、お寺を媒介にして匿名で助け合える仕組みのデザインであり、それはさまざまな場所において実践可能な方法論です。「チロル堂」も奈良県にはじまりましたが、これからさまざまな地域に展開されて、それぞれの場所で独自の深化を生み出していくのではないでしょうか。

わたしが専門とする情報技術の分野における「わたしたち」のデザイン事例もとりあげます。ソフトウェアの世界では「コンピュータを用いた人間の協調活動支援」(Computer Supported Cooperative Work、CSCW)という研究領域がありますが、さまざまな仲間たちと協働するためのサービスが数多く存在します。2022年度は世界中でファンを獲得しているコラボレーションサービスのNotionがベスト100に選ばれました。わたしも実は数年前よりNotionを愛用しており、担当審査ユニット違いですが「私の選んだ一品」にも推してしまいました。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/13781

特にコロナ禍以降のリモートワーク生活では、大学の学生たちや学外の共同研究者や友人たちと、思いついたらすぐにNotion上でメモを一緒に書きあってアイデアに輪郭を与えることができました。優れたユーザーインタフェースにより、まるで仲間たちとひとつの街をつくるように情報をつくり、まとめ、わかちあえるNotionは、同床異夢的な「わたしたち」を醸成します。わたしの大学ゼミでは、学生たちにNotion上で個人ページをつくってもらい、そこで日々の気づきや学びを書き留めていってもらっているのですが、日記のようにそれぞれから個性がにじみ、メンバー間の多様性が自然と発露するところがまさに同床異夢的なおもしろさを生み出しています。

最後に、情報技術と地域デザインの融合という視点で、「わたしたちのウェルビーイング」を考える上でとても示唆の多い事例として、ベスト100受賞作である「NFTを含む山古志住民会議の取り組み」を取り上げたいと思います。

https://www.g-mark.org/gallery/winners/13777

NFTやDAOといったweb3の技術を用いて、過疎化した山古志村でデジタル村民を募り、土地に固有の風景や文化を持続させていく取り組みとして評価されたプロジェクトです。わたしはフォーカス・イシューの活動の一貫で現地を訪れ、山古志住民会議代表の竹内春華さんにインタビューをさせていただきました。この時、深く感銘を受けたのは、竹内さんがこれまで山古志で蓄積してこられた時間の厚み、そこから醸成され、拡張されてきた「わたしたち」の意識でした。竹内さんはもともと外部から中越地震以降の復興支援員として山古志にやってきて、それから19年以上も村の活性化のために尽力されてこられた方です。そんな彼女が山古志で生活するおかあさんたちやおとうさんたちのことをかっこいいと表現する様子に、「わたしたちのウェルビーイング」の源泉を見てとれる気がしました。

※参考記事:「わたしたち」という感覚は、いかにして拡張される?──山古志住民会議・竹内春華×ドミニク・チェン

現地に生きる村民たちとオンラインの参加者たちという2つの層が協働しているのを見ると、この状況もまた「同床異夢」と「異床同夢」の両方を兼ね備えているように思えます。竹内さんが外部の人から内部の人へと時間をかけて変容していったように、デジタル村民たちもまた独特の経路で山古志村の「わたしたち」になっていく可能性があるからです。いずれにせよ、とかくキャッチーなバズワードになりやすいテクノロジーではなく、山古志村という生きている土地を主語であり続けてほしいと思います。

「ゆらぎ」「ゆだね」「ゆとり」をデザインする

ここまで見てきたように、「わたしたち」という意識で、ウェルビーイングを協働的につくる場そのものや、場の醸成を支援するデザインのかたちはプロダクトのジャンルを横断して観察することができます。これからも、一方的に個々人のウェルビーイングを制御しようとすることなく、人々が自律的に「わたしたち」という意識を耕していく手助けをするようなデザイン事例が増えていくことを期待しますし、自分もそのようなうねりに参加したいとおもいます。なにより、「わたしたちのウェルビーイング」というテーマにつながる種子は、日常生活の至るところに蒔かれています。

重要なのは人同士、また人と他の生物、人と環境といった関係性をつぶさに観察し、それぞれの関係を成り立たせているメディアの作用を注視することです。たとえば、身近な人との他愛のない会話を観察することだけでも、言葉という原初の道具に加えて、コミュニケーションを媒介するメディア(口頭、電話、チャット、メール)が、互いのウェルビーイングを形成するうえでどのような役割を果たしているのかを考えることができます。わたしたちがデザイン可能な対象は、商業的なプロダクトに限らず、それこそ日常的に交わす言葉ひとつからでも見出すことができるのです。

この意味では従来の専門的なデザイナーという職能が今日、あらゆる人に対して開かれているようにも感じます。危機と不確実性が増していく時代のさなかにあって、個々の「わたし」たちが尊重されると同時に「わたしたち」としていきいきと協働できる社会への道筋は、多種多様な知見をもつひとびとが協働しながら、ミクロな身体のスケールから公共的な規模の仕組みのスケールまでを同じ「デザイン」の視点でつなげることによってはじめて示すことができるのではないでしょうか。

わたしは現在、コミュニケーション科学者の渡邊淳司さんと一緒に、「わたしたちのウェルビーイング」をつくるためのデザイン指針についての本を執筆しています(ビー・エヌ・エヌより2023年春頃刊行予定)。そこでは従来の「わたし」についてのウェルビーイング研究から出発し、個人の充足を尊重しながら、「わたしたち」という協働の感覚を生み出し、持続させるデザインについて考察しています。そこでわたしたちが気づいたことは、個々人の「わたし」が自身の変化に対してオープンになり、自己の制御を手放してゆだねながら、目的ではなく経験そのものの価値を他者とわかちあうという流れが、ウェルビーイングの持続を考える上で大事であるということです。わたしたちは、この3つのデザインの対象となる要素をそれぞれ「ゆらぎ」、「ゆだね」、「ゆとり」と名付けました。

今回紹介した受賞作の数々は、どのように「わたしたち」が生まれるデザインになっているのかという協働性の観点から考察してきましたが、それぞれの事例のなかにも「ゆらぎ」、「ゆだね」と「ゆとり」の要素を見出すことも可能でしょう。「わたしたちのウェルビーイング」の研究と実践はまだ始まったばかりですが、そのために多くの優れたグッドデザイン賞受賞作から学べることはまだまだ多いと感じます。


ドミニク・チェン

情報学研究者|早稲田大学 文学学術院 教授

1981年生まれ。博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Cente\[ICC\]研究員, 株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現職。テクノロジーと人間、自然存在の関係性、デジタル・ウェルビーイングを研究している。著書に『コモンズとしての日本近代文学』(イースト・プレス)『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)など多数。監訳書に『ウェルビーイングの設計論―人がよりよく生きるための情報技術』、監修書に『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために―その思想、実践、技術』(共にBNN新社)など。